キリストの遺体包んだとされる布を公開、トリノの大聖堂
今後6週間の公開期間中に、約200万人もの人々がトリノの大聖堂を訪れる見通しだ。
カトリック教会は聖骸布について、真偽とは関係なく、信仰のための大事な道具との立場をとっている。
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観光客目当てとも思えるような。聖書には、こういう物を拝むような教えはないはず。それは偶像礼拝としてだめとも言われているはず。うーむ。ですので、私もカトリックをこころの中では注意して区別してみています。
プロテスタントである私が、(おそらく誰でも)聖書の教えをどおりに必ずしも生きれないのですが、団体全体が公然と偶像礼拝をするのは、意味が違うと感じます。
人が自分たちで聖書の教えを曲げてしまう作ってしまう。それは、神との関係ではないんじゃないですか。先日ディスカバリチャンネルでモルモンのことをテレビ放送していましたが、彼らは死者を洗礼するというようなことがありました。神の教えを受け入れなかった、自分の近親者を天国に送りたいような、そんな感覚は私にも理解できますが、聖書にないことを教えられていないことをするのはまずいんじゃ。
イスラムの人はマホメット(モハメド)が神の啓示を受けたといい、モルモンはジョセフ・スミスが同様だという。私には、むろんそれらを実証できるものはなにもないですが。その後のイスラムやモルモン、カトリック、仏教、ヒンズー教、その他の方々の行動を見聞きしながら、聖書や教会を通して知ったことと対比し、自分なりに、今があるわけです。
判断の根拠は、理屈などでは、難しく、聖霊を感じること、悪霊を認識すること、も必要と感じます。そうか、聖霊を受けていなければ感じることはできないのか。
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