どちらも、聖書の教えと何かを混ぜ合わせてしまったもののようです。
聖書を読んで信じても、日本の神々の祭られたところを参拝するというのは、私には理解しづらいです。
手嶋さんという方の40年位前に書いた文章が今でも載っています。教祖的な方かもしれません。この小冊子が、たまたま、おくられてきていまして、読んでいるうちに変だぞ、と思うようになったしだいです。
カトリックも人為的なものが多いという話があります。人の付け加えたものが多いということのようです。明確にここからは、だめだよと境界線を明確に引くことは難しいのかもしれません。
ひとついえることは、われわれ聖書の神を信じるものが、神の言葉に、自分の固有の考えや、そのほかの何かを混ぜ合わせてしまう、そういう危険性は誰にでもあるかもしれませんね。
逆に、モルモン教や幕屋、カトリックなどを通して、聖書の神だけじゃないか、神社崇拝や、マリヤ崇拝はおかしい、と気づく人もいるかもしれませんし。
自分の固有の考え思考を捨てたくなくて、すばらしい聖書の教えと合体させたい、自己実現というか、自己正当化、というか、そういう誘惑はあるかもしれません。
それは、私たちが持ってしまいやすい悪しき欲求のひとつなのでしょうか。私のような弱い信仰のものならば、とてもとても、と思うのですが、より多く神様を体験し人々を信仰へ導く、指導者的な立場になると、そういう誘惑が混ざり、おかしなことに気づかなくなる。
われわれ人間はもろい、弱いものですね。