2011年7月23日土曜日

ニューヨークは世界の縮図か?

ニューヨークには、確かに、世界中のあらゆる人種と文化背景を持った人々がいるようです。その多様さには、驚きます。世界中の憂いを見させられている思いがしました。マンハッタンが人生の全てになってしまっている人もいるようですが。神は、この地球を私たちに提供してくださった。氷の場所あり、高山、砂漠、海、島、森林、あらゆる変化をくださった。マンハッタンはその一部であることを、思い起こしたい。東京生まれ東京育ちの私は、狭いスペースで人がひしめき合って押し合っているのが嫌いでした。山や自然に憧れました。ロッキー山脈のユタ州に5年、カリフォルニアに1年、ワシントン州には14年住み、東京あたりよりは少し広いところに住んできて、今、ニューヨークを見ていると、人を観察しているのが、楽しいという一面があります。日本の東京で嫌いだった人ごみが、懐かしいような面があるのです。もっともニューヨークは日本人ばっかりの東京とはまったく違い、もしかすると、世界でもまれな、世界中の人が集まっている場所かもしれませんね。嫌いだった東海岸が少し興味深いものになってきています。

ニューヨークの求人

craigslist などでニューヨークの求人を見ていますが、ロックスターとか、表面的なものを求めている、そういう求人が多いように感じます。

娘の先輩22歳の女の子の話では履歴書が派手じゃないといけないような話です。表面的な見せかけが大事な街、それがニューヨークなのか。娘の先輩も娘もそれに合わせようとしているような。彼らはアパートのオーナーと2時までに会わねばいけないのに起きたのが1時半。我が娘ながら、全くそのいい加減さ。娘の先輩は、電話で大家さんに今向かうところだと言ってから、この家を出るのに40分かかっています。こんな不誠実、私もそうなんでしょうか。人はこんななんでしょうか。

彼らはアパートの後の仕事のために、履歴書作成で夜更かしをしてしまいました。アパートが決まっていないのに。大家さんとの待ち合わせに遅れてまで、こんな優先順位の間違いを、私もしているのでしょうね。

一つづつステップバイステップ。私が自分をこの混沌の街で見失わないようにありたいですね。

2011年7月17日日曜日

全身やけどの人

昨日再び身を寄せた、知人の家 New Jersey の Paramus の近くの店のキャッシャーで、全身やけどらしき人が働いていました。見えるところ、顔と頭と腕全てが、紫がかっています。その人は、視線を合わせるのを避けている感じがしました。おそらく白人の若い男の人だと思いますが。自分に対する驚きの顔を見たくないような。

私には、その気持がわかるような気がします。私は、全身やけどでもないのに人の視線を警戒しているから。どう思われるか自信がなく恐れているから。

その時、思ったのは、心のなかで、相手がどう思うかは変えられないけど、自分の心は変わることができる。どんなにすごい姿でそれは変えられなくても、心は変われる。イエス・キリストとともに。

私が、人を恐れるのは、私に攻撃的な心が自分の中にあるからで、それが、(人も自分と同じで)人を通して、自分に戻ってくるのを恐れているように感じます。私に差別の気持ちが減れば、そういう恐れも減るように感じます。