2010年4月10日土曜日

近所の高校フレッシュマンキャンパス

息子は14歳で9年生。日本にいたら中学2年の歳ですが、こちらでは高校のフレッシュマンをあと2ヶ月で終わろうとしています。変則ですが学校区にフレッシュマンだけのキャンパスがあり、そこに行っています。息子の話では、最近、同級生たちの意地悪に嫌気がさしてきているようです。アジア系をからかう冗談もあるようです。また、学校のど真ん中で、衆目の中、からかいから生じた殴り合いの喧嘩が最近2件あったり。

アジア系は18.8%、白人は73.8%、黒人1.8%、ヒスパニック4.6%。修士以上の学位を持つ先生が73.9%。

この秋から、今娘が行っている高校に移るのですが、似たような構成ですが、さらに生徒1346人のうち、無料か、減額された昼食をさせてもらっているのが36人、2.7%で、娘も実はその一人です。私が失業していた期間が長かった影響ですが、我が家は、地域の下位2.7%の超貧困家庭というわけです。

周囲の多くは白人で金持ちで、意地悪で、アジア人差別して、暴力をふるい、テストの時には見せろと要求してきたり(カンニングは日常のようです)、ずるい生徒たちばかりで、そういう生徒たちが、親からのプレッシャで、医者や弁護士になっていく。もちろん、全部じゃないと思いますが。多いようです。この辺にはそういう医者や弁護士が多いようです。

娘の高校のワシントン州内でのテスト結果はトップクラスです。州内にUSNewsの全米ランキングで50位以内に入る特殊な小さな学校が2つあり、その次州内3番手、全米80番くらいのランクの高校とほぼ同等のテスト結果を出しています。公立高校です。フットボールも盛んらしく、州では優勝したようです。でも、中身は、どうでしょう。

私は子供達のために良かれと思い、テスト結果の比較的よい公立学校に入れる住宅を選んだつもりでした。それは、私も、優秀=高給な仕事=生活が楽、というこの世によくある論理を持っていましたし、減りましたが、まだ捨て切れていないのです。しかし、それを実践している、多くの近隣の親と子供達の状態は、むしろ、精神的に荒れている面があるようです。注)私は地域の裕福な方々と対照的に貧困家庭のお父さんですが、私も精神的に自分がいいとは思っていません。貧困=清い、でもないのです。とほほ。

そういう環境ですが、小学校は、そうひどくはなかったようです。また、我家の子供はふたりとも、中学校だけは、比較的良い経験をしたように感じます。娘は、バンドで、フルートをやって、そこそこの経験ができました。息子は6年生の時に会った科学の先生がよかったようで大変身、学習に興味を持てて、小学校の5年生までの平均以下の生徒が、7年生では学年の4%の表彰される優等生にまでかわりました。中学校では、そういういじめは顕著ではなかったようですが、同じ子供達が高校へ行くと、悪い方へ変身しているということでしょうか、それとも学校の先生の問題なのか、親のプレッシャのせいなのか。

神を知っているのですから、優秀さなどの能力でなく、神に頼って、生きる、実践へと、我が家も、変わっていきたいのです。地域の2.7%の極貧家庭という状況は、ひとつの神様からいただいた変わるチャンスのようです。昨年は苦しかったですが、祈りながらなんとかやっていけました。貯金が減ったときに、仕事が見つかったり。また仕事が3ヶ月弱で無くなったら、家内が少し稼いでくれたり。近隣は裕福なのでないようですが、少し離れたよそでは多くの人が、破産して、ローンを払えず銀行から持ち家を取り上げられています。そういう方々も聖書の神様を受け入れられますように。

2010年4月3日土曜日

音声認識の仕事で

音声認識の仕事をしていますが、サンプリングした日本語のデータをところどころチェックしています。二日ほどやっていますが、日本の方々の声をずっと聞いていると、極一部の人を除いて、自分がだんだん気分が重くなってくるのに気づきました。うーん、なんか、少し晴れ晴れとしないすっきりしない、ちょっと重い感じが伝わってくるような気がします。多くの人達からそういう印象を受けるので、私の問題か、多くの方々が、重荷を抱えているのか。

明るい人は限りなく少ないです。

カウンセリングをして、悩みばかり聞いていたら、きっともっと大変でしょうね。非力な私では、自分のことで潰れそうなのだから、無理です。自分ではなく、誰かの力でないと、受けられない。

2010年3月18日木曜日

一人で居る:邪魔が無い:効率が悪い

最近、一人で、自分のペースでツールプログラムを作ろうとしていますが、邪魔が無いのに、効率がとても悪いです。ニュースを見たり、ゲームをしたり、音楽を聞いたり、ビデオを見たり、肝心の仕事以外のことをやってしまいます。

要は、私自身が、自分を律することが、ほとんどできない人間のようです。自分から何とかしようということが少ない。遊んでしまう。思い起こせば、十代の時からそうでした。

人と居るのがストレスになり、人を避けるのですが、誰かと一緒にいた方が、何かをするにはいいのかもしれません。

こんなです。

2010年3月11日木曜日

子供達と生きる

娘の大学行きを一年半後に控え、費用を出すにはリタイアのお金を使うしかないかなと感じる、私です。昨年は七ヶ月以上失業でした。収入も下がってきて、物価は上がっていますし。

時に、娘を感情的に怒ったりします。たぶん自分の思い通りにやってくれないから。

最近子供を虐待するニュースを見ます。私も娘が小さいとき泣いてばかりいると、どうして、こんなに世話しているのに、と、娘の立場にはなれず、赤ん坊の娘に怒る感情を持ったことがあります。

そんな私ですが、もう小さい時のように可愛くも無い、世の悪影響を受けた十六歳の娘をなんとか、育って欲しいと思っているのを驚きます。こう生きれるから、人は絶滅しないで済んだのでしょうね。努力せずとも、そういう感情を備え持っているのですね。

進化論という偶然の産物的考え方では、説明のつかないことですね。神がそう作ってくださったことを受け入れれば、得心がいきます。

思い煩うなと神は言われます。そうでした。

2010年2月27日土曜日

民主主義

私の子供の頃、独裁政治に対比して、民主主義がいいと教えられてきました.納得したものです。みんなで決める。多数決がいいと。

それ以上いい考えは私にはなかった。

クラスの中での投票は、この人のほうがあの人より優れていると思われたから、選ばれた、私は、そんな冷たいことを言っていたのを思い出します。15歳の時でした。むろん、私は中学校でずっと、学級委員でクラス代表だったりしたから、弱い人の選ばれなかった人の気持ちが、わからなかったし、自分が得意になっていた、ようです。

一生懸命頑張って努力して、より良いことを成し遂げた人が、怠けていい加減にやった人より報われる事自体は、当然と思ったりしましたが、自分が、うまくできないことが増えた、高校時代16歳くらいから、その論理では、苦しくなる一方でした。弱肉強食の論理になりませんか。

ずっと40年苦しんできました。自分は劣るから、仕方ない、クリスチャンになって7年が過ぎましたが、まだそのことで苦しんでいます。人に認められない、愛されないのは、何かが劣っているからとか。

2010年2月10日水曜日

聖火リレー、アメリカ~カナダへ

朝8じまえ、アメリカのフィル・メーアが聖火を持ってピースアーチをくぐります。周りで鳴っている太鼓のような音は、日本のお寺やなんとか教で鳴る太鼓とそっくりです。ネイティブ・アメリカン、アメリカインディアンの不気味な、リズムです。たまたまフィル・メーアもワシントン州ヤキマの出身ですが、あのへんもネイティブ・アメリカンの多い地域です。

このピースアーチは、私どもがカナダに遊びにいく時通るところです。

アメリカ西海岸北部にはトーテムポールなどネイティブ・アメリカンの影響が多く残るところです。不気味なトーテムポールは思えば日本の仁王門の不気味さなどと共通点があるなぁとあらためて思います。私の息子も小さいときは、近所の公園にある、スノコルミ部族のトーテムポールを怖がっていたものでした。それが自然です。日本の仁王門や、ヒンズー教のシバ神の仏教版の像など気持ち悪いです。3歳くらいの子が怖がるのは自然と思います。大人は、麻痺して、気持ちの悪いものを拝んだりしてますね。

2010年2月9日火曜日

タイプーサムから思うこと

http://cnn.co.jp/fringe/CNN201002080017.html
マレーシアのヒンズー教徒が背中にかぎ針を刺す写真があり驚きます。タイプーサムというお祭りだそうです。無病息災や平安を祈るのに苦行が求められる人のこと。

無病息災という言葉は仏教の言葉でしたか、病気がなく災がないことを、たしかに私もそういう状態が望ましいと感じますが、現実の人生はそうでもないですね。ヒンズー教徒はこういう痛い苦痛の苦行を通して祈るのということなのですか。これで本当に効果があるのでしょうか。

日本の神仏混合の社会では、たしか神社かお寺に行ってお賽銭を投げたり、なんかご利益のあるといわれるものを買ったりするようですから、苦行はないですね。これで本当に効果があるのでしょうか。

キリスト教では、父なる神に、イエス・キリストの名によって願い事を祈りますが、神は、答えてくれることもあるし、祈りに答えないこともある。答えないのは祈る我々には不本意なことですが、神の目からは最善という、外の人から見たらなんだそりゃ、と言いそうな事を受け入れています。これが受け入れられる自分にも過去の自分から考えて不思議な変化ですね。

ヒンズー教の経験はないですから、かぎ針を体に刺す気持ちはわかりません。日本育ちですから、お寺や神社で願い事をしている感覚は少しわかりますが、祈る相手は、聖書の言う父なる神でなくては、となってしまいます。